東松照明 大竹昭子
東京駅の地下深いホームから外房線に乗り、１時間後に着いた一宮は、ささやかな商店街のあるひなびた町だった。霧のような細かい雨が降っている。車はすぐに人気のない田舎道に入った。湖の手前の家といったら、ここしか無いけどねぇ。運転手が指す方に三角屋根の館があった。車を降りて道の奥にたたずむ家の表札をたしかめた。東松とある。ここにまちがいない。
アジア各地の仮面や民芸品の並ぶ玄関ロビーを抜けて居間に入り、椅子についたところでセーター姿の東松照明が現れた。
東松に会うのは今回がはじめてではなかった。１９８６年、「Black Sun：The Eyes of Fours」と題して、細江英公、東松照明、森山大道、深瀬昌久の４人の日本人写真家の巡回展がイギリスとアメリカで開かれた。その準備のために来日したキュレーターとともに杉並の自宅をたずねたことがある。東松照明という鮮烈な字面から、私は勝手に松明をかかげて闇を疾走する男をイメージしたが、本人に会って「名」が暗示した「体」に圧倒された。全神経が眼に集中したような容赦のない視線を浴びて、裸にされたように感じた。凝視ということばを、あれほど身にしみて感じたことは後にも先にもない。
いま目前の東松の視線に穴を穿つような激しさはなく、修行僧のような精緻さに変わっていた。数年前に心臓のバイパス手術を受けてライフスタイルの変更を迫られ、東京の住まいをたたんでここに引っ越したという。
―― むしろ自分を確かめる作業に近いですか。
「そう、自分とは何なのかって抽象的に考えても何もわからないから、何か投げかけてみて対象との緊張関係や衝撃波の強さで存在を確認するわけ。だから直面性とでもいいますか、つねに現物がないとだめなんですよ。現物と向き合う緊張感があってはじめて写真が成りたつんです。生きている証というか、自分がそこにいたこと、その時間、その時代を生きていた証。アイデンティティーというのは具体的にはそういうことでしかないし、そこに写真をやる楽しみがあるのね。」
（中略）
最初に沖縄に渡ったのは１９６９年のこと。１ヶ月間、嘉手納基地周辺に張りついて基地の模様のみを撮った。かつて「占領」というシリーズで全国の主だった基地をまわったが、そのとき沖縄だけ撮り残していた。
（中略）
それから東松は、頻繁に沖縄に足を運びはじめるが、テーマは当初の「占領」から大きくずれていった。第一回目の滞在のとき、基地の撮影が終わったあと本島の北や周辺の島々をたずねた。本土以上にアメリカのダイレクトな支配を受けながらも、アメリカの影響は感じられず、むしろ子供のころの記憶に残る日本、懐かしい日本がそっくりそのままあったことに大きなショックを受けた。沖縄の根っこを支えるものに触れたいと思った。
本土復帰する１９７２年、４２才を迎える春についに住民票を移して”移住”というかたちで沖縄に移り住む。当時もっとも活動が注目され、年齢的にも脂の乗りきっていた時期にある写真家が、東京の生活をなげうって島の人になるという大胆な行動だった。
（中略）
―― あらかじめ滞在の期間は決めていましたか。
「いや、決めてなかった。もしかしたら永住するかもしれないけど、それほどはっきりした覚悟があったわけではなくて、居心地がよければそれもよかろうという気分。那覇ではぼくが写真家であることを知っている人とつきあっていたけど、そのあと移った宮古島は写真の写の字もないところでね、僕のことを知っている人はほとんどいなかった。３０人くらいの若者と宮古大学というのをつくって、一番年下が１７歳、年上が２２歳というくらいみんな若くて、ぼくだけがヤマトンチューで４０歳を越えたオジンでね。でも、そんな年齢差を感じないくらいすっと溶け込んで、毎日、緊張感があって本当に第二の青春みたいな気分。小魚の群に手をポンと叩くと、しゃっと逃げるような何とも言えん快感ががあるのね。何かちょっとおかしなことを言うとどっと笑って、そのときのハーモニーが実にいい。命が美しいというのはああいうことだね。にきびが幾つあるというところまで見えるような暮らしであり、政治であり、経済であり、そのへんのところが都会育ちのぼくにとって新鮮だったのよ。それまでは人に背を向けて生きていたのかもしれないね。沖縄は人と人のあいだに距離がなくて、裸のつきあいでしょう。そこではじめて人間に出会ったのかもしれないね」
―― 沖縄で撮られた写真は島の光や風になってしまった人が撮っているという印象を与えます。
「そうかもしれないな。那覇で親しくしていた琉大美術科の学生が言ってたもんな。東松さんの写真はぼくらの撮る写真だ。それを先にやられてしまったと。ただ、それがいいことかどうかわからない、というのは、ぼくというフォルムがなくなっているわけで、自分というものが全部パーになるのだから。自分の作品としてはいけないのかな、なんてね。”作者・沖縄”とか（笑）」
（中略）
沖縄は東松照明にとってどのような場所だったのだろう。島の暮らしを体験して写真家の自我はどう変化したのだろう。このようなことを思うのは彼の体験に自分自身を重ねてみているからかもしれない。私はこの数年間、頻繁に沖縄に飛び、人に会い、祭事を見学し、島独自の文化を体験した。短期間暮らしてみたいと願ったこともあったが、結局は夢を実行することなく東京との往復を続けている。それを思うと衝動のおもむくままに沖縄に飛び込み、島の人々とまるごとのつきあいをし（彼らとのつきあいはおもしろいが、非常にエネルギーがいる）、”作者・沖縄”の写真を生んだ東松のダイナミックな生き方に魅了されるのである。
東松にとって沖縄は、最初、「占領」というキーワードで戦後日本とつながっていた。ところが、実際に訪ねてみると、そこにあるのは本土で失われた懐かしい風景であり、ゆっくりとおだやかな時間の流れであり、人と人が体ごとぶつかりながら生きる人間臭い暮らしだった。都会暮らししか知らなかった写真家は、そこではじめてカメラを握る以前のひとりの人間として生きた。そうした時間の中から「ぼくたちの撮る写真だ」と島の人びとに言わせた写真シリーズが生まれるのである。
少しでも沖縄を知る私はこのことばの重さを深い感慨をもって聞く。沖縄の人々は島の人間しか持ち得ない感覚や感性にこだわり、微妙なちがいを鋭く言い当てる。島という閉ざされた空間は固有の風土や人間関係を育み、それが島の人間と外の人間をきびしく峻別するからだ。「これはぼくたちの撮る写真だ」ということばは、写真表現においてその境界線を越えたということを意味する。島をとらえる眼、島を感じる感性に、彼らとの誤差がなかったということだ。これは大変なことである。意識を解き放ち、制度から自由な身体を獲得したことによって、沖縄の光や風と融合するという飛躍が可能になったのだろう。
写真は自己を表現するのではなく、自己をとりまく世界を写しだす道具であると考えるならば、作者が沖縄である写真は自我からもっとも遠く、従ってもっとも写真らしい写真といえる。撮る行為をそこまでつきつめ、自我が溶解する寸前までいった態度は見事ですらある。
（中略）
―― ここでの１日はどんなふうですか。
「晴耕雨読と言うけれど、晴れているときは撮影に出て、曇りや雨の日には暗室にこもる、単純に言えばその２つですね。暗室では昔のベタ焼きを見ながら焼きなおしているんです。４０数年も写真をやっているとずいぶんたまっているから。これはほかのメディアにない写真だけの特徴だと思うけど、年月がたつとちがうものが見えてくるんですよ。たとえば、沖縄の写真でいえば、写真集『太陽の鉛筆』に入っているのは沖縄で現像して引き伸ばしたものだけど、８１年に『いま!! 東松照明の世界・展』を開いたときに半分入れかえて、９２年に『南方見聞録』展をやったときにまたプリントしなおして、極端にいえば最初のときに比べると３分の２が別の写真になったんです。それくらい１０年ごとにがらがら変わるんですね。多分、時代の変化と、自分自身の変化と、そういう時間の移ろいがそうさせるんでしょうね。だから客観的にどうかは別として、本人にとっては選びなおすというのは結構おもしろいんですよ。写真を撮るのと同じでまばたきしながらシャッターを切ってるんですね。エンドレスでいつまでも終わらない。 （抜粋）
１９９４ 眼の狩人 新潮社